戦後の学制改革において、公立学校のみを事実上対象にして前期中等教育を義務教育
にし、後期中等教育と分断しました。一方で私学は、これに国立学校もなぜか含まれ
るのですが、義務教育段階の前期中等教育において自由に入学試験を実施し、後期中
等教育段階の高等学校の卒業段階まで一貫して大学受験から様々な教育活動に特化す
ることが可能になっているのが、現状の日本の公教育となっています。
社会が成熟化するのにともない、これまで教育を受けることができなかった層にまで
中学校や高等学校までの教育を受けることが保証されるようになってきました。この
国民皆教育こそ、社会発展のエンジンとして、近代化をもたらしたことは言うまでも
ありせん。しかしだからといって、この国民皆教育の考えを国家や社会が共通理念と
するからといって、公立学校においてエリート教育を保証しないということにはなら
ないはずです。そこに何ら一貫した一貫的な論理的繋がりを見てとることはできませ
ん。公立学校でもエリート教育を施す学校があってもいいはずです。社会において一
定の先導者(ベストブライテスト)がいるからこそ、社会の発展が促されるのだと考
えれば、むしろ公立学校でしかエリート教育を施すことはできないはずです。社会が
将来のエリート候補に還元してこそ、そこで学んだ学生・生徒らも広く社会の役に立
つことを考えるようになるはずです。私学でしか教育を受けなかった者たちだけで構
成されるエリート層だけで社会が先導されるようでは、果たして社会に還元してゆこ
うという考えを心の基底において持つことができるのでしょうか。
また、公立学校で育ったエリート層を想定するとして、そうしたエリート層を想定し
ない思考とは、社会主義に丸々染まった非現実的な空想の産物にすぎない考えだと指
摘できるのではないでしょうか。そうじゃなくても、社会主義と親和性をもった思考
法でしょう。社会主義の非現実性が立証されたといっていい現在、多くの個人の教養
が涵養されうる先進社会であっても、やはり一定の専門家ないし先導者という存在が
想定されうるでしょう。
それゆえに、公立による学校で、誰でもが教育を受けられる機会を保証するとともに、
一方で、社会を先導するエリートを想定した教育を学べる学校をも公によって保証す
るべきだといえます。適性試験など現状の私学の経営に配慮した変則的な入試から、
特にこれまでの公立学校のそれと替わり映えのしない学校行事や部活動を実施してゆ
くだけでは、公立中高一貫校の今後も遠く将来行き詰まらざるを得なくなるででしょ
う。